映画『ドライブ・マイ・カー』

1ヶ月ほど前に観た『ドライブ・マイ・カー』という映画について、ようやく自分の中で整理がついた気がして文章にすることができた。以下、本編の内容に触れるため鑑賞予定の方はご注意ください。

 

 

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3時間という比較的長尺の映画だったが、退屈ではなかった。物語は淡々と進むのに。何らかの意図を感じ取れてしまうほどに演者たちのセリフには抑揚がないのに。それは僕が主人公である家福という男に、なめらかに感情移入できていたからかもしれない。

 

この映画には原作が存在する。村上春樹の短編集『女のいない男たち』に収録されている『ドライブ・マイ・カー』『シェエラザード』『木野』の3本がそれに当たり、それらを下敷きとして1本の映画となっている。なので厳密に言えばいわゆる原作ではないのだが、濱口竜介がこれらを参照し編集し脚本を書いたのだからある種の原作といえる。

この映画の大筋としては、最愛の妻を亡くした男が、その後の人生で閉ざしていた自己や亡き妻との向き合い方の変化を描いているように思う。僕個人としては、この「閉ざしていた」という部分がこの映画で描かれた心の機微として最も重要なものだと思っている。これは原作のひとつである「木野」を読み終えて、強く感じたことでもある。

映画『ドライブ・マイ・カー』において、主人公・家福の自己との対峙は北海道でのシーンに強く描かれている。ドライバーであるみさきが、彼女の暗く陰鬱な過去に自身の中でのけじめをつける場面であり、それに誘発されるようにして家福の自身の過去との向き合い方に変化が生まれる。その時家福から発せられる台詞が、記憶が正しければ、『木野』に出てくる台詞と一致している。

 

そう、おれは傷ついている、それもとても深く。

 

ここで『木野』における主人公である木野が傷ついている理由と、家福が傷ついている理由は完全に一致はしていないが重なる部分がある。どちらの場合も、自身がそのことについて目を瞑る、或いは自身の中で折り合いをつけることで意識的にその問題との距離をとっていた。それは自身が傷ついていることを認識する前に、無意識に、本能的になにか論理をみつけて自身を納得させることで、自分が傷つかないようにする、言わば自己防衛的な行為だと思う。

そのとき家福は、自身が無意識に行っていた自己防衛の向こう側には、深く傷ついている自分がいたことを知り、涙を流して真に自己と対峙することを決意する。このシーンは、僕にはこう映ったのだ。正確には映画でこのシーンを観た時ではなく、『木野』を読み反芻的にそう認識した。

 

この映画が素晴らしく思える理由は、短編3作に2題の演劇を織り交ぜながら滑らかな1つのストーリにまとめ上げた濱口の手腕であるとか、「演じること(演劇)を演じている(映画)」という入れ子の構造において、仮面を外したときの演者の人間的な部分を抉るように描写することに成功している点、劇中の演劇に手話というメディアを持ち込んだことなど、挙げればキリがない。とくに2つ目なんかは、フィクションだからできることであり、それを際立たせるために演者(映画)のセリフに抑揚がないのか、とか、そのためにあの「本読み」があったのか、など色々と考えを巡らせてしまう。

しかし、僕が心を打たれたのはそういった映画技法的なところではなく、(それらに支えられるようにして)人が真に自分と向き合うとはどういうことかをまざまざと見せつけたところだと思っている。しかも、原作、特に『木野』と併せて読むことでその行為がひどく恐ろしい性質を孕んでいることを、読者・鑑賞者に突きつけてくるのだ。

 

それまで僕は「自分と向き合う」という行為を漫然と素敵なものだと思っていたし、僕は割とそういう行為が出来ていると思っていた。自己肯定感も強い方だと思っているし。しかし、映画『ドライブ・マイ・カー』そして原作『木野』での、どろどろとした暗く重い「自身との対峙」の有りようを観て、その辺がかなり揺らいでしまった。僕の自己肯定感の深いところには本能的な自己防衛みたいなものがあるんじゃないか。つまり、少しでも自分というものが傷つきそうなときには、意識するよりも速くブレーキが踏まれていて、自分の中でなにか理屈がこねられて、そういうおそれのあるものに蓋をしていたんじゃないか。そのたくさんの蓋の上に自己肯定感がどかっと横たわっている。そういう風に思えてしまうのだ。

 

いつだったか、CreepyNuts のR-指定が「歌詞を書いている時はほとんど自傷行為に近い。」という旨の発言をしていた。以前HIPHOPの性質について書いた記事でも触れたが、基本的にラップ・ミュージックではラッパー自身のことが歌われる。それは、その人のこれまでの人生を明らかにする行為であり、突き詰めれば開けたくもない「蓋」を開ける行為なのだ。まさに自傷行為である。しかし、R-指定は続けて「その詞が完成したとき、憑き物がとれたように楽になる。ラップをすることは自傷行為を通したある種のセラピーでもある。」と言った。

 

今になってこの言葉の意味が少しわかるような気がするのだ。あらゆる表現行為の出力先である「作品」には、どうしようもなく個人的な事情で生み出され、いくつもの葛藤の果てに産み落とされるものがあると思う。その葛藤の様子を作品に垣間見たとき、そしてそれが自身に射影されたとき、人は「琴線に触れた」と感じるのかも知れない。

そういう意味で、この映画は僕にとって重要なものになっている。それは、家福という男の自己との対峙のしかたを通して、僕自身の自己防衛という本能的な行為が存在する可能性を仄めかせたからだ。この行為が僕の中で本当に行われていた/行われているのかは、今はまだよくわからない。だが、そこに至るまでの思考の契機をもたらしたことは確かであり、それはつまり僕にとって『ドライブ・マイ・カー』がすごくいい映画だったと言える○

 

雑記:17-19.12.2021

先週末、大学時代の友人が東京から遊びに来てくれていた。わざわざ大阪までたいへんありがたいことだ。金曜の夜、仕事終わりに新幹線に乗ってやってきてくれたのだがその日は(というか週末を通して)とても風が強くて挨拶もそこそこに足早にご飯を食べに向かった。入ったのは近所の焼肉屋で、いかにも大阪といった感じのおかんがやっているお店だった。大阪に来て10か月ほど経つのに、しかもなかなか大阪色濃いめの街に住んでいるというのにこの手のお店に来たのは数えるほどしかない。(緊急事態宣言がでていたというのも大いにあるのだが。)そんな人情で経営しているようなお店だったが、やはりというべきか美味いのだ。お酒もお肉も。とても満足だったのだが、気になる点があった。注文の度にユッケ?的なものをおすすめされたのだが、毎回必ず「かる~く炙ってますんで!」と付け足す。うちはちゃんと火入れてるからね、ということなのだろうが言えば言うほど、である。結局頼まなかった。

その日は土日の予定をざっくり決めて、次の日に備えて早めに寝た。

 

 

土曜日は車を借りて三重県に行くことにした。というより僕が行きたいと言ったのだ。三重県って行ってみたい所はあるけど、なかなか行く機会がなかったのでちょうど良かった。僕が三重県でどうしても行ってみたかった場所のひとつが伊勢神宮だ。特にこれといった強い理由や信仰心なんてないのだが、ただなんとなく行ってみたかった。幸い、友人も行ったことがないようだったので行先はすんなり決まった。大阪から三重まで3時間くらい。二人で運転を交代しながら向かった。ちなみに僕は運転が苦手(というか下手)で、友人数人とドライブなんかに行くときは大体最後まで温存されている。毎回思うのだが、車の運転ってみんなどんな気持ちでやっているんだろう。僕なんかは、自分の気の迷いでいつでも人を殺せてしまう、なんて危険なんだ…。とか思ってしまってかなり緊張する。まあ経験が圧倒的に足りないのだろう。しかし今回は友人と2人でのドライブなので自分が運転しないわけにもいかない。なので高速など比較的運転しやすいところを担当した。それでも助手席の友人にかなりサポートしてもらってなんとかだった。要介護青年である。運転上手くなりて~。

そういえば、道中、京都あたりの山あいの町だろうか。雪が積もっていた。それはもうたいへんに美しかった。車を停めてきちんと写真をとればよかったと後悔するくらいに。僕の生まれ育った高知県というところはなかなか温暖な気候で雪なんて滅多に降らない。ましてや積もることなんてない。僕の記憶では小学生の頃に一度だけ。その日は朝の校庭でベタに雪だるまをつくったり雪合戦をした気がする。でも雪がそんなにしっかり積もっていなかったからか、土が混ざって想像していた真っ白な雪ではなくてなんか汚えなと思った覚えがある。ということもあり、いまだに雪が降るとテンションがあがるのだがその日の数分の光景は今までで一番きれいな雪景色だったように思う。

てなかんじで車を走らせてようやく伊勢神宮に到着した。圧倒的大自然パワーだった。でかい木がにょきにょき生えていてとても良かった。普通の神社やお寺みたいに雰囲気で順路がわかるもんかと思っていたら、いろんなところに神様が祀られていてかなり迷ってしまいなかなかボス(正宮)までたどり着けなかった。でも散策感が強くて結構楽しかった。こういうところに来ると近所にどかんと緑がある環境っていいなと思う。

伊勢神宮を出た後すぐ近くのお店で伊勢うどんを食べた。せっかくだから名物を、ということだったのだが讃岐うどん狂信者の僕としてはあまり好みでなかった。名物ってのはそういうもんかもしれん。

 

そこから車に乗りこみ次の目的地に向かった。こちらも僕の希望だったのだが、伊勢から40分ほどの鳥羽市に「海の博物館」という建物がある。ここが三重で一番行きたかった場所だ。この建築は内藤廣が設計したのだが、僕は学生の頃から内藤さんが結構好きなのだ。建築はもちろんのこと、僕は内藤さんの書く文章がかなり好きだ。きっかけは、学部4年の時に読んだ講義シリーズ(環境・構造・デザイン)だと思う。内容が面白いことに加えて、その文体が、なんだか話しかけてくれているような手触りなのだ。以来内藤さんのファンになったわけだが、内藤さんの建築って結構地方に多いイメージでなかなか見に行けていないのだ。その中でも今回訪れた「海の博物館」は内藤さんのキャリアにおいて初期、それも公共建築に限れば最初期の作品だ。これは絶対見たいぞ、と思っていたので結構うきうきだった。

月並みな感想だが、すごく、すごくよかった。何が良かったのかと振り返ってみると、おそらくスケールの操作、そして分棟の配置なんじゃないかと思っているけどまだうまく言い当てられていない感じがする。なので、感想についてはまた今度書こうと思う。

 

「海の博物館」を後にし、時間も時間だったのでまっすぐ帰って近所の居酒屋で飲んだ。1階が満席とのことで通された2階は強烈な実家感のある和室みたいなところだった。妙に不信感を覚えつつ、飲んでいたんだけど出てくる料理が軒並み美味い。しかも安い。そしてこの実家のような和室は僕たちしかいなくて貸し切り状態。つまるところすごくいいお店だった。店員のお兄ちゃんもいい人だった。近所にこういうお店を発見できたのは嬉しい。

 

 

日曜日は、映画を観た後ぶらぶらと買い物をした。「ドライブ・マイ・カー」を観た。秋口に上映が終了していたはずが復活上映的なやつで今月の23日までやってるとのことで滑り込むかたちとなった。どうしても劇場で観ておきたかったので、友人にお願いして付き合ってもらった。はるばる大阪まで来てもらったのに僕のしたいことばかりで本当に申し訳ないなと思う。しかもこの映画3時間もあるのだ。すまん。

個人的に、すごくいい映画だなと思った。思ったのだが、例によってどこがよかったのかうまく言語化できない。観終わってハンバーガーを食べてる時に友人とぽつぽつと感想を言い合っていたのだがなかなか難しい。でもこうやってすぐに感想を共有できるので、誰かと映画を観るのって豊かなことだなと思う。ちゃんと咀嚼できたら、こちらもまた改めて書きたい。とりあえず原作を買ったので読もうと思う。パンフレットもちゃんと読もう。

 

その後買い物に出かけたのだが、友人は買うべきものを見失い頭を抱えていた。彼も服が好きで、なにか新しいものを狙ってたり買ったりするとよく話すのだ。そして決まって毎回、とにかく数をこなすしかないというところに行き着く。今回も、上がりへの道のりは長いということを噛み締めつつ彼は帰っていった。

なかなか充実の週末だった。今回で少し前に買った使い捨てカメラを撮り切ったので現像が楽しみである。気に入ったものがあればのっけていこうと思います〇

 

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韻の飛距離について

前回、ラップ・ミュージックに通底する精神的な面白さについて語ったが、今回は基本的な作法である「押韻」についてなんとか語ってみたいと思う。

 

まず、その基本的な仕組みはもはや説明不要であろう。かの時代とは違い「韻」というものはもはや日常にあふれており、ポップスやロックの歌詞に登場することも珍しくない。というか起源は漢詩にあり、詩の基礎的な修辞技法であるため作詞において押韻がみられるようになったのは今に始まったことではない。より身近な例を挙げるとすれば「インテル入ってる(Intel Inside.)」だろうか。これだけで「押韻」における「頭韻」と「脚韻」が説明できるのだから大変スマートである。(ちなみにこのコピー、日本で生まれたものらしい。すごい。)

仕組みについては以上だが、ラップ・ミュージックの「韻を踏む」という行為の面白さについて考えたい。その基本的な役割は、譜割りのリズムをよくしたり聴き心地をよくしたりといった感性に寄ったところが大きいような気がする。しかし、韻の面白さはもう少し違うところにもあるのだ。それはR-指定が言うところの「韻の飛距離」というものである。(そろそろ気づかれてそうだが、僕はCreepy Nutsを偏愛しているためこの手の話題ではかなりの頻度で彼らが登場すると思う。)ではこの「韻の飛距離がある」とは一体どういう状態なのか。それは、「韻を踏んでいる状態にある複数の語句の間の意味内容が乖離しているほど可笑しみが増すこと」を指していると思われる。意味が分からないと思うので実例を見てみよう。(できれば最初は歌詞を見ずに聴いてもらいたい。)

 

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これはZORNの『Have a good time feat.AKLO』という楽曲である。今回取り上げたいのはZORNの1バース目。ZORNと言えば現在の日本語ラップシーンにおける押韻の極北といった存在であるが、この楽曲でもとんでもない踏み方、そして「飛距離」を叩き出している。

ヤン車でナイトクルージング

煙くて窓開けないと苦しい

昔は逮捕続き

でも今ラップするチャイコフスキー

インスタ映えしないディープな夜景

誰がBEAMSなんて行くかハゲ

お前はスタバでPOPEYEを読む

俺らキャバクラでおっぱいを揉む

絶品フレンチよりよっちゃのもんじゃ

聖地巡礼に来い 昭和のモダン

ミシュランガイドの三ツ星店でも

見つかんないとこ見過ごしてる

一軒もねえ 成城石井

土手で童貞捨てたhomie 正常位し

表参道のオープンカフェよりも

嫁さんとの醤油ラーメン

両者ともそれぞれの日常をテーマとしており、特別な日ではなくなんでもない毎日こそが生きていく上で重要なのだ、みたいなメッセージを感じる。ZORN葛飾新小岩に生まれ現在もそこを拠点に活動を続けているラッパーで、長く固い韻を踏むスタイルを確立している。今回取り上げたバースでもそのスタイルは一貫しており2小節単位でバチバチに踏んでくる。中でも「ミシュランガイド~見過ごしてる」までの流れはなかなかすごい。ABABという構成でありながら(ここが全踏みの時点できもい)、4つすべてで頭韻、しかも"iu"の2音で踏んでいるのだ。そして技術に裏打ちされるかのように、当然の如く聴いていて気持ちがいい。ビートへの乗せ方も相俟ってついつい首を振ってしまう(MVのZORNのように。)

しかし、それだけではない。今回のテーマである「飛距離」についてだ。これについては前述の通り「可笑しさ」や「面白さ」に係るものだと思っているので、「飛距離がある」かどうかは非常に主観的で定性的な判断になる。個人的にZORN押韻は大抵の場合たいへんな飛距離があると思っているのだが、今回であれば後半4行に集中して見られる。

まず「成城石井」と「正常位し」。全踏み、それも母音ではなく子音でなのでもはやここまでくると駄洒落とどう違うのかと思われるかもしれない。ここでは成城石井が一軒もないという新小岩辺りの下町らしさを描写しつつ、そこから急に土手(中川だろうか。)での青姦の描写に移る。意味内容において一見何の脈絡もないこの2つの単語が「押韻」の下に召集され、ややもすればなんだか新小岩の日常として地続きなものかのように扱われる。(だとすれば大変愉快な町である。)この関連のない複数の語句に対していかに関係性を見出し意味の通ったまとまりとして成立させるか、というところが押韻と駄洒落との決定的な違いかと思う。そして、その複数の語句の意味内容における関連の無さが「飛距離」として表れる。

また、最後の2行においてはこれまで描かれてきた新小岩の対比として、小綺麗な街の象徴である「表参道のオープンカフェ」が持ち出され、呼応するように「(も)嫁さんとの醤油ラーメン」と驚異の14文字全踏みが待ち受けている。このように思いがけないフレーズでこんな文字数踏まれると単純に面白くてゴンフィンガー(gun finger:レゲエのイベント等で盛り上がったときに見られる行為。指で銃を模倣した形をつくり空高く掲げるのだが、これは昔実際にブチ上ったら銃をぶっ放していたことに由来する。)という感じなのだが、ここでふと気づくことがある。

 

この対比というのは、振り返ってみるとこのバース全体を貫く構成となっているようだ。現代の「充実の象徴」としてSNSに蔓延る華やかで小洒落た街並みや暮らしぶりと、そういうところには映らない地元下町の小汚いそれらとを明らかに意図的に対比させるように配置している。なぜか。これは通常主観的に測ってしまう「飛距離」をなんとか客観的な指標でもって評価しようとする行為だと僕は思うのだ。どういうことかというと、「飛距離」、つまり複数の語句において意味内容がどれだけ乖離しているかは、個人の経験や価値観に依るところが大きいと思う。もっといえば、言葉の意味というのはある程度周知されており、ほとんどの場合伝えたいことは伝わるのだが、その言葉によって掻き立てられる想像や連想されるイメージが人によって全く異なるのだ。当然、「飛距離」も人により異なるということになる。

ところが対比という構成でもって語句の配置を行うとどうだろうか。その瞬間たちどころに語句の意味するところが狭まり、というか相互的にイメージを補完しあう関係性が成立する。一般的な語句のイメージとそれによる距離感がある程度規定されるのだ。それにより、万人にとって飛距離のある押韻が成立する。

 

僕は「面白い」という感情は、共通認識に作用できているかに大きく関わっていると考えている。その極致ともいえるのがいわゆる「内輪ネタ」であり、「内輪ネタ」が公の場で忌み嫌われるのもその場にとっての共通認識にはないものを扱うからだろう。これは、電車内なんかで他人の会話は気にならないのに、電話での会話が妙に気に障ることにもひょっとすると通ずるのかもしれない。そういう意味で、対比という構成をとることによって複数の語句の共通認識を(強制的に)認識させることは、韻の「飛距離」(韻によって引き起こされる可笑しみ)を獲得するという点において非常に有効な手段だと思うのだ。ZORNが意図的にそうしているかは別として。

 

こうした視座でもってラップ・ミュージックの歌詞をみてみると、非常に慎重な手付きで言葉が配置されていることがわかってくる。それは聴き心地という感情的な面と今回のような理性的な面の双方において。もちろんこれは僕が勝手にそうなんじゃないかなと考えていることなのだが、ラップ・ミュージックの見方(聴き方)のひとつとしてこういうのもあるかなと思う次第である。ほんとはサンプリングについても一緒に考えようかと思っていたんだけど、妙に文字が多くなってしまったので次回にしようと思います〇

 

どんな服を着るか

あなたは今どんな服を着ているだろうか。最近めっきり冷え込んできたのでお気に入りのコートに身を包んでいるかもしれないし、温かい部屋で動きやすいスウェットなんかを着ているかもしれない。昔から衣食住というくらいだし、人の生活において服を着ている時間は極めて長い。お風呂に入るとき以外は着ているんじゃないだろうか。そんな生活必需品とも言うべき服を、人はどう捉えているのだろう。ある人は服なんて究極ただの布なのだから着られればいいと考え、またある人は身に纏う服は一番身近な自己表現なのだから一番気に入ったものを着るべきだと考えている。またある人は、服とは広義の意味でファッションの一部なのだから流行のものを常に着ていたいと考える。いずれも真っ当な意見であり、貴賤はない。どこまでいっても服は服なのだ。人それぞれ好きなように楽しめばいい。しかし、ほぼすべての人が日常的に関わらざるを得ないものなのに(だからこそかもしれないが)、ここまで大きな考え方の違いが生まれているのは結構面白い気がする。実際、僕が今までであってきた人の中にはどのタイプの人もいた。そして、この服に対する考え方の違いは「どんな服を買うか」に顕著にあらわれると思う。大多数の人々にとって普段身に纏う服の入手方法は、お店で売られているものを購入することがほとんどだろう。古く(まだブランドという概念が生まれていないころ)はパターン(服の型)が売られていて、各ご家庭で生地を用意し服を作っていたそうだが今はそういう話は聞いたことがない。なのでひとまず、「自分が着るための服をどうやって選ぶか」つまり「どんな服を買うか」としておく。

 

恥ずかしい話だが、僕は大学生の頃から所得の大半を服や靴などの身に着けるものに投じてきた。そういう意味では社会人一年目となる今年はなかなか恥の多い年である。これまでで一番服にお金をかけたように思う。去年、「社会人になったら好きな服着る機会も減って買わなくなるかも〜」などと抜かしていた自分は本当に寝ぼけていたと思う。いきなりお金の話で悲しくなるが、僕たちは資本主義社会を生き抜いていかなくてはならないのだ。当然である。

「服はただの布」派の人たちには、服にお金をかけるという行為そのものが理解できないかもしれない。あるモノの値段を見た時に高いと感じた場合、それは自分(少なくとも今の自分)に向けてつくられたものではないという結構冷たい考え方もあるが、なぜ高い服が存在しているのかについて少し考えたい。

まず初めに、高い服が存在する以上安い服も存在する。(高いから良い、安いから悪いということではないことはきちんと断っておく。)それはいわゆるユニクロZARAH&Mなどに代表されるファストファッションの台頭により大衆に広く支持されるようになったと思う。Tシャツが1000円を切り、コートだって1万円だせばお釣りがくることも少なくない。冒頭に述べたように服は生活必需品であるし、ある種消耗品なのだから当然安い方がいい。しかも昨今のユニクロなんかはそれでいて結構質がいいのだ。生地も良ければ、縫製も昔よりよくなってきているし、日本人にとってかなり着心地のいいものが多い。「安くて質がいい。」完璧だ。服はユニクロ。終了。あざした。

 

とはいかない。安い服がなぜ安くて、高い服がなぜ高いのかの説明が必要だ。安さについては改めて説明する必要もなさそうだが、ひとえに大量生産に依るところが大きいだろう。かつて、産業革命に後押しされるようにフォード社による大量生産が確立され、安くて質の良いものがつくられるようになる。それにより自動車というものが大衆にまで行き届くようになり、人類の交通手段に大きな変革をもたらした。服も同様である。ファッション業界は、1970年ごろにオート・クチュール(haute couture:高級仕立服)からプレタポルテ(prêt-à-porter:高級既製服)への大きな変遷を経験し、時代を経てファストファッションによる大量生産に到達した。この大きな時代の動きは、いずれも大衆にファッションを届ける意味で非常に重要な役割を果たしてきた。つまりだれでも気軽にファッションを楽しめるようになったのだ。

そんな時代になってもなぜ依然としてデザイナーズブランドの服はあんなに高いのだろう。先程ファストファッションのTシャツは1000円を切るといったが、いわゆるブランド物のTシャツは数万円することもしばしばである。原価の違いはもちろんあるだろう。高級な生地を使ったり、高度な技術や丁寧な手仕事を要するものであれば当然コストは上がる。しかし、それだけでは説明のつかない金額というものは確かに存在する。

そこにあるのは、ブランドやデザイナーが連綿と続くファッション史の中で積み上げてきた、知識や哲学のような目には見えない価値が多分に含まれているからだと僕は思う。長いファッション史の中で絶えず新たな価値を持つデザインは模索され、それに成功した時代を象徴するデザイナーは数多く存在する。70年であればヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)、80年代は川久保玲(COMME des GARÇONS)や山本耀司(Y's)、90年代はマルタン・マルジェラ(Maison Martin Margiela)、00年代はエディ・スリマン(Dior Homme)、そして10年代はデムナ・ヴァザリア(VETEMENTS,BALENCIAGA)等が該当するだろう。彼らが稀代のデザインを生み出したのは何も偶然ではない。非常に高度な服飾の技術を専門的に学んだ上で、それまでのファッショ史が積み上げてきた価値を熟知した上で、それらを再構築し世に提案しているのだ。これはファッションに限った話ではない。わかりやすいもので言えば本だってそうだ。紙とインクでできてはいるが、値段がページ数で決まるわけではない。僕たちは、その本に書かれていることがこの世に顕現している事実に対価を払っているのだ。その価値は僕たちの知っている言葉で翻訳されているからわかりやすいだけで、服だって服における共通言語を知ればその翻訳の意味がわかってくるはずなのだ。「何かをデザインする」とはそういうものだと僕は思う。消費者がこのリテラシーを放棄した時、明日のファッションは死んでしまう。だから僕はデザイナーズブランドが出す服に高いお金を払うのだ。

 

僕が服にお金を使う(数をたくさん買うというより高い服を買う)ようになったのは大学2年生の秋ごろからだったように思う。それまでも自分が着る服については多少なりとも意識的だったような気がするが、値の張る服、いわゆるブランド物とは無縁だった。僕の出身が田舎なのも大いに関係あるだろう。だが、ひとたび高いお金を服に払い、その気に入った服を身に纏う悦びを体験すれば、際限のない購買という修行が手ぐすねを引いて待っている。購買の精度を上げるには度重なる失敗こそが必要で、思い返せば多くの服が僕のワードローブ(スカした言い方をしてしまったが平たく言えばクローゼットのことだ。)を通り過ぎていった。その中で段々分かってきたことというか、自分の服の買い方が定まってきたような気がする。

 

僕は現在、自分のワードローブの強度を上げていくことを念頭に少しずつ買い物をしている。どういうことかというと、僕は普段全身真っ黒の服ばかり着ているのだが、そのせいかよく着る服のジャンルが固まりつつある。色が変数として存在しない分、選択肢が服の型の種類に限られるというとわかりやすいかも。つまり、コート、ジャケット、シャツ、スラックスみたいに日々のスタメンが決まってきたのだ。そこで、それぞれのジャンルの自分にとっての「上がりの服」を揃えていこうという思考に至った。まあ、長く着られる良いものを少しずつ買っていこう、というただそれだけの話である。ただ、この「上がりの服」というのが結構難しくて、一般的にいいものかどうかではなく、それを着た時にいつでも自分がブチ上がれるかどうかという基準で選ぶのでなかなか集まらない。この「ブチ上がる」というのもまた難儀なもので、着心地が抜群に良いことや単純に見た目がかっこいい、自分に似合っているといった要素のほかに、「好きなブランドの服である」、「好きなデザイナーが手がけた服である」というものが入ってくる。この先に待つのは、「自分が気に入って着ているこの服を、自分は本当にモノとして気に入っているのか。好きなブランドだから、憧れのデザイナーがつくったから好きなんじゃ。…俺はいま情報を着ている。」という終わっている思考である。こうなるともうおしまいなので、身近に罹患者がいる方は生温かい視線でもって接してあげてほしい。服好きとはかくも憐れな存在なのだ。

 

とは言いつつも、そんな日々を過ごしてようやくまともな(?)買い物ができるようになってきたように思う。本当に最近、ここ1年くらいのことである。そこで次回からは、時期も時期だし1年の振り返りの意味も込めて今年購入したものを軸に僕の好きな服やブランドについて、いろんな文脈に触れながらなんとか語っていければとおもう。このテーマも長くなりそうだが、優しく見守っていただきたい○

自己礼賛という態度

前回服について語ると言ったが、今回のテーマは音楽にしてみようと思う。というのも先日、Spotifyが「あなたのSpotifyまとめ2021」として今年僕が良く聴いていた曲なんかを集計して教えてくれた。数年前から始まったこのサービスだが結構気に入っていて毎年楽しみにしている。再生回数の多い曲やアーティストのようにいくつかの項目ごとにまとめてくれており、その中に最もよく聴いたジャンルというのがある。今年は、というよりここ数年僕はHIPHOP、とりわけ日本語ラップに大ハマりしていて、ご多分に洩れず今年も日本語ラップ一色であった。そこで今回は日本語ラップについてなんとか語ってみたいと思う。音楽というのは大多数の聴衆にとって理性より感性に比重が置かれ、語ることそのものが野暮だという意見もあると思う。もっともである。しかし、ことHIPHOPというカルチャーにおいては、「知れば知るほど面白くなる」という性質が他のカルチャーよりも強いように思うのでご容赦願いたい。

 

僕がHIPHOPにハマったのは大学2年生の夏だった。今でもよく覚えているのだが、高校時代の友人たちと車で四国を周っているときにその中の一人がCreepy Nutsの「合法的トビ方ノススメ」という曲をかけた。それまで邦楽ロックを好んで聴いていた僕だが、その時かかった日本語ラップにかなりくらってしまったのだ。「オレが狂ったのは奴らのせいさ」、ということである。正直自分がラップを聴くようになるとは思っていなかったが、それからというもの、どんどん日本語ラップ、ひいてはHIPHOPというカルチャーの深みにはまっていった。日本語ラップのなにがそんなに良かったのか。その辺りから始めていきたい。

 

ラップ・ミュージックについて語るには、まずそれが生まれた土壌であるHIPHOPという文化について触れなければならない。一般にHIPHOPには4つの大きな要素、DJ・グラフィティ・ダンス・ラップがあるとされる。もともと主にアフリカ系アメリカ人貧困層から発生したムーブメントで、そこにはギャングたちによる血生臭い抗争の影がある。彼らがそういう環境でなんとか生きていく術として、つまり血を流さずに争いの終着点を決める方法として持ち出されたのがダンスやラップというわけだ。それらのスキルの優劣、つまり、「やるかやられるか」から「どっちがよりイケてるか」という評価基準の転換が起こったのだ。そうなってくると、ダンスやラップが周りのやつより上手にできることがかっこいい、という新たな価値観がギャング以外の層にまで広がっていく。文化の興りには諸説あるが、そういう風にしてHIPHOPは発展してきたようだ。

 

そうした生まれからか、ラップ・ミュージックは「誰が何を言うか」というようなラッパー個人の価値観のプレゼンといった性質が、他の音楽ジャンルに比べて強いように感じる。これはCreepy NutsのR-指定がいつかのラジオで話していたことなのだが、歌謡曲やいわゆるポップス等において歌手が自身のことについて詳らかに歌うことはかなり珍しい。「私が歌姫美空ひばり」、「俺が玉置浩二from安全地帯」とはなかなかならない。しかし、ことHIPHOPにおいては「オレがZeebra ド派手なハスラー」(『Dynamite』Zeebra)と、こう来るわけだ。つまり、自分はどこの誰なのか、どういう生き方をしているのか、そしてほかのラッパーと比べてどう優れているのかということを様々な作法に則り表現するというのがラップ・ミュージックの基本的な性質と言える。このZeebraの『Dynamite』の歌詞にも見られるように、自分がどれだけ優れているかを顕示する(boastingと呼ばれる)ことがHIPHOPの大きな特徴となっている。ちなみにハスラー(hustler)とは、「デキるやつ、やり手」のような意味合いで用いられ、この場合もそういう解釈でよさそうだ。しかし、ハスラーもといハスリングにはドラッグを密売するという意味合いのスラングとしての用法があり、こちらのほうがよく用いられているイメージだ。日本では馴染みの無い行為なのでピンとこないが、海の向こうではそれほどありふれた光景なのかもしれない。日本語ラップにおけるハスリングとして真っ先に思い出されるのがPUNPEEの『P.U.M.P~駄菓子売ってハスリン~』という曲だ。用法としては後者で、まあ内容は想像に難くないだろう。タイトルからもわかるが50centの『P.I.M.P』のビートジャックである。PUNPEEだいすき。(一応YouTubeで聴けるのだが、本人が上げた動画ではないのでリンクを貼るのは控えておく。でも是非聴いてほしい。元ネタも合わせて。)

 

少し話が逸れたが、ラップ・ミュージックにおけるこのボースティングという表現方法が、僕がラップを好んで聴いている大きな要因の一つである。いかついお兄ちゃん達の「オレこんなにすごいんだぜ自慢」を聴いて何が楽しいのかと思われるかもしれないが、少し説明させてほしい。大きく2点。ひとつはヤンキー漫画を読んでいるような感覚。自分と全く違う境遇や環境で育った人間が、どうやって現在の生き方を勝ち取りどういう生活をしているのかが自伝的、エッセイ的に語られるのを聴くのは単純に面白い。令和の時代に『東京卍リベンジャーズ』が流行していることからも、マイノリティな感覚でもなさそうだ。逆に、似たような境遇や環境で生まれ育った人にとって退屈なものなのかと言えば、きっとそうではない。僕なんかよりも、ずっと高い解像度でラッパーたちの言説をあるあるとして想像できるだろうからもっと面白く感じているのかも。そもそも本場USでHIPHOPが市民権を得ている(もはやメインストリームと言ってもよい)のは、そういう側面に依るところが大きい気がする。

もうひとつは圧倒的な自己表現あるいは自己肯定にある。ラップ・ミュージックの歌詞において視点が一人称、つまり歌っている本人であることは先ほど述べたが、そのどこまでいっても自分のことを語り自身を礼賛するという表現方法は、副次的に他者をも鼓舞する力が伴う気がするのだ。「俺はこんなに劣悪な環境で生まれ育ったが、いまではラップ一つでここまできたぜ。いい女とうまい酒、宝石だってこんなにある。俺ってすげえだろ。」というステレオタイプな文言の背後には、「俺でもできたんだから、お前もできるぞ。腐ってないでやってみろよ。」的なアツいメッセージがあることを感じ取ってしまうのだ。これはかなり旧時代的なHIPHOPのイメージだが、現在では(正確にはもっと前からだが)本当に多様な出自のラッパーが出てきており、およそすべての人が自身との共通項をもつラッパーに出会える土壌が日本にも出来てきている気がする。ラップ・ミュージックが「持たざる者の音楽」と表現される理由はここにある気がする。もちろんこの表現は、そもそもの音の作り方(サンプリング)やマイク1本で始められることにも大きく起因する。それらが物理的な側面だとすれば、今回触れたのは精神的な側面だと言える。

つまりラップ・ミュージックにおけるボースティングには圧倒的な自己礼賛という精神性が通底している。それは現時点のうまくいっている自分だけでなく、そこに至るまでの経緯ややり方、ひいては生まれた環境をも強く肯定する行為である。

 

自分が自分であることを誇る」 ー『ラストエンペラーK DUB SHINE

 

ということだ。この、聴いている者の自己肯定感にまで影響するほどの自己礼賛という態度が、僕がHIPHOPに感じる大きな魅力の1つである。

 

しかし、ここで問題になるのが「そいつがどれだけすごいかのエピソードなんて何とでも言えるじゃん」ということである。確かに彼らの楽曲中に登場する武勇伝なんかは真偽の確かめようがない。MVやinstagramのストーリーで見せびらかせているブリンブリン(桁違いの光物)や高級車だってレンタルかもしれない。実際ヘッズ(ファン)たちの間では、「あのラッパーはフェイクだ。」「こいつだけはリアルだ。」なんていうリアル/フェイク論争が散見される。

個人的な意見だが、この答えのない論争は最早ラッパー側の倫理観と我々リスナー側のリテラシーによって落ち着かせる他ないと思う。もちろん、HIPHOPという文化には「リアルであることが大前提」と言ったような風潮がある。それは文化の出自からも明らかであるし、嘘を並べたところで結果的に割りを食うのはラッパー自身であることを彼らもよく知っているのだろう。ということをリスナー側が認識することで、この信頼関係のようなものが成立しているような気がする。その上でようやく、そのラッパーの、一人の人間としての素性に興味が湧くのだ。そのラッパーの生い立ちや生き様を曲で知り、インタビューなんかで曲では語られない情報を得ることで、そのラッパーへの解像度がグッと高まりもっとそいつの曲が聴きたくなる。この「知れば知るほど面白い」がHIPHOPというカルチャーの沼に踏み入っていくきっかけとなるのだ。

 

 

途中で出てきた「サンプリング」や、ラップという歌唱法の基礎的な作法である「押韻」などラップには他にも面白い要素がたくさんある。が、今回はラップ・ミュージックに通底する精神性の面白さをなんとか語ったところで留めておきたい。ので、この日本語ラップというテーマはしばらく続きそうである。とりあえず次こそは服のことについて書きたいです○

 

 

なにかについて語ろうとすること

 

「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」

 

これはルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる『論理哲学論考』の最後の命題としてあまりに有名なフレーズである。

僕がこの言葉に出会ったのは修士1年の頃だったように思う。10+1websiteという建築を中心に論考や対談などがアーカイブされているサイトがある(残念ながら2020年3月をもって更新が終了している)のだが、その中に立石遼太郎さんという方が執筆された「建築の修辞学」という記事があった。その記事がまあとにかくおもしろい。(以下にリンクを貼っておくので是非)こんなに鮮やかな建築の語り口があるのかと。当時の僕が受けた影響は大変なもので、そのまま修士設計のテーマを決めてしまったほどである。その記事の中で触れられていたのが冒頭のフレーズという訳だ。

www.10plus1.jp

 

論理哲学論考』において、僕たちがいる「世界」とはあらゆる事実の総体からなるもので、その世界に包含されるかたちで「僕がみている世界」が存在している、という位置づけがなされている。そして、その「僕がみている世界」とは「僕が語り得るもの」でできているというわけだ。しかし、「僕がみている世界」の中の全てを語り得るか、と言われるとどうも自信がない。例えば日頃から趣味として接しているものも実際よくわからずに好んでいるし、どこがどう好きなのか、どう良いのかを人に説明しようとすると途端に言葉に詰まってしまう。専門的に学んできた建築だって満足に語れないのだから当然と言えば当然である。とにかく、そういう類のものを僕の世界の中での「語り得ぬもの」として位置付けたい。そうすると「語り得ぬものについてなんとか語る」行為は僕の世界を少しだけ押し広げるという行為になるかもしれない。なんだか意味がありそうだ。

 

人があるものごとについて語る、それは大抵の場合その人自身が普段からよく接していて、なおかつその物事についてある程度理解しているという自負があるときに起こる行為だろう。その語り口はきっと流暢で、頭の中の情報に対して発話のスピードが追いついていないような感じかもしれない。それは「語り得るものについて語る」という状態と言えそうだ。その「語り得るものについて語る」のに適したメディアはやはり「発話」であろう。対して「語り得ぬもの」、つまり自分の言葉で流暢に説明できないものは「発話」という速いメディアには不向きだ。「語り得ぬもの」というくらいだからそのことについてあんまりよく知らないし、知っている情報が正しいのかもわからない。(正しさがどこまで重要かは置いておくとして。)それをなんとか語るためには、調べたいこともたくさんあるだろうし自分の考えを何度も推敲しなきゃいけないだろう。それに適した遅いメディアとして文章がいいと思ったのだ。

 

そもそもなぜ僕が誰かに頼まれたわけでもないのに何かについて語り、それを文章として発信するのか。もうすでにだらだらと喋っているが。僕はいつからか文章を書くという行為に憧れていた。学生の頃、建築家なんかが書いた文章などをよく読んでいたのだが、たまにすごく素敵なテキストに出会う。フレーズでも文章でも、とにかくテキスト。それは建築家自身の作品についての解説だったり、その人自身の哲学だったり様々だがそういうテキストというのは結構自分の中で大事なものとして残っていて、制作の最中折に触れて読み返してはときめいたりしている。

それともう一つ。僕が大学院生の時に所属していた研究室に、それは偉大な博士課程の先輩が2人いた。どちらも大変優秀な方で普段の何気ない会話すら勝手に緊張していた。そのうちのお一人が数年前からブログをやられていて(界隈では結構有名なブログなのでご存知の方も多いかもしれない)、そのブログがまあ面白い。日常の何気ないことから建築や芸術などについての丁寧な思考まで幅広く書かれている。ひっそりとファンであった僕はアーカイブを1から遡り全ての記事を読んでは一人尊敬の念を募らせたりしていた。そうこうしている内に、ブログって面白そうだなと思ったのだ。

 

たくさん文字を積み上げて御託を並べたがつまりは100%憧れからブログの開設に至ったという訳だ。しかしうきうきで開設したはいいものの、一体どんな記事を書けばいいのか結構悩んだ。悩んだが、僕が熱をもって話したいと思うことなんかそんなにたくさんあるわけでもなく、趣味やそのとき興味があることについてなんだろうなという感じである。

なので、ひとまず興味のある建築・服・映画・音楽なんかについていろいろと書いていけたらと思う次第である。最近自分の中でアツいのは服のことについてなので、次の記事は服についてなんとか語っているかもしれない。

どんなカルチャーにも言えることだが、少し足を踏み入れると上には上がいるというか生き字引のような人がゴロゴロいて(特に昨今のsns時代においてはそういう人が目立つ)自分なんかが今さら何を語るんだ、という卑しい気持ちに襲われるが、こういう行為はある種訓練のようなものだと思うのでめげずに続けていきたい。

ブログで好きなこと書くよ〜というだけの内容なのに、小難しい哲学書から始めているあたりかなり心配だが取り急ぎ所信表明として○