自己礼賛という態度

前回服について語ると言ったが、今回のテーマは音楽にしてみようと思う。というのも先日、Spotifyが「あなたのSpotifyまとめ2021」として今年僕が良く聴いていた曲なんかを集計して教えてくれた。数年前から始まったこのサービスだが結構気に入っていて毎年楽しみにしている。再生回数の多い曲やアーティストのようにいくつかの項目ごとにまとめてくれており、その中に最もよく聴いたジャンルというのがある。今年は、というよりここ数年僕はHIPHOP、とりわけ日本語ラップに大ハマりしていて、ご多分に洩れず今年も日本語ラップ一色であった。そこで今回は日本語ラップについてなんとか語ってみたいと思う。音楽というのは大多数の聴衆にとって理性より感性に比重が置かれ、語ることそのものが野暮だという意見もあると思う。もっともである。しかし、ことHIPHOPというカルチャーにおいては、「知れば知るほど面白くなる」という性質が他のカルチャーよりも強いように思うのでご容赦願いたい。

 

僕がHIPHOPにハマったのは大学2年生の夏だった。今でもよく覚えているのだが、高校時代の友人たちと車で四国を周っているときにその中の一人がCreepy Nutsの「合法的トビ方ノススメ」という曲をかけた。それまで邦楽ロックを好んで聴いていた僕だが、その時かかった日本語ラップにかなりくらってしまったのだ。「オレが狂ったのは奴らのせいさ」、ということである。正直自分がラップを聴くようになるとは思っていなかったが、それからというもの、どんどん日本語ラップ、ひいてはHIPHOPというカルチャーの深みにはまっていった。日本語ラップのなにがそんなに良かったのか。その辺りから始めていきたい。

 

ラップ・ミュージックについて語るには、まずそれが生まれた土壌であるHIPHOPという文化について触れなければならない。一般にHIPHOPには4つの大きな要素、DJ・グラフィティ・ダンス・ラップがあるとされる。もともと主にアフリカ系アメリカ人貧困層から発生したムーブメントで、そこにはギャングたちによる血生臭い抗争の影がある。彼らがそういう環境でなんとか生きていく術として、つまり血を流さずに争いの終着点を決める方法として持ち出されたのがダンスやラップというわけだ。それらのスキルの優劣、つまり、「やるかやられるか」から「どっちがよりイケてるか」という評価基準の転換が起こったのだ。そうなってくると、ダンスやラップが周りのやつより上手にできることがかっこいい、という新たな価値観がギャング以外の層にまで広がっていく。文化の興りには諸説あるが、そういう風にしてHIPHOPは発展してきたようだ。

 

そうした生まれからか、ラップ・ミュージックは「誰が何を言うか」というようなラッパー個人の価値観のプレゼンといった性質が、他の音楽ジャンルに比べて強いように感じる。これはCreepy NutsのR-指定がいつかのラジオで話していたことなのだが、歌謡曲やいわゆるポップス等において歌手が自身のことについて詳らかに歌うことはかなり珍しい。「私が歌姫美空ひばり」、「俺が玉置浩二from安全地帯」とはなかなかならない。しかし、ことHIPHOPにおいては「オレがZeebra ド派手なハスラー」(『Dynamite』Zeebra)と、こう来るわけだ。つまり、自分はどこの誰なのか、どういう生き方をしているのか、そしてほかのラッパーと比べてどう優れているのかということを様々な作法に則り表現するというのがラップ・ミュージックの基本的な性質と言える。このZeebraの『Dynamite』の歌詞にも見られるように、自分がどれだけ優れているかを顕示する(boastingと呼ばれる)ことがHIPHOPの大きな特徴となっている。ちなみにハスラー(hustler)とは、「デキるやつ、やり手」のような意味合いで用いられ、この場合もそういう解釈でよさそうだ。しかし、ハスラーもといハスリングにはドラッグを密売するという意味合いのスラングとしての用法があり、こちらのほうがよく用いられているイメージだ。日本では馴染みの無い行為なのでピンとこないが、海の向こうではそれほどありふれた光景なのかもしれない。日本語ラップにおけるハスリングとして真っ先に思い出されるのがPUNPEEの『P.U.M.P~駄菓子売ってハスリン~』という曲だ。用法としては後者で、まあ内容は想像に難くないだろう。タイトルからもわかるが50centの『P.I.M.P』のビートジャックである。PUNPEEだいすき。(一応YouTubeで聴けるのだが、本人が上げた動画ではないのでリンクを貼るのは控えておく。でも是非聴いてほしい。元ネタも合わせて。)

 

少し話が逸れたが、ラップ・ミュージックにおけるこのボースティングという表現方法が、僕がラップを好んで聴いている大きな要因の一つである。いかついお兄ちゃん達の「オレこんなにすごいんだぜ自慢」を聴いて何が楽しいのかと思われるかもしれないが、少し説明させてほしい。大きく2点。ひとつはヤンキー漫画を読んでいるような感覚。自分と全く違う境遇や環境で育った人間が、どうやって現在の生き方を勝ち取りどういう生活をしているのかが自伝的、エッセイ的に語られるのを聴くのは単純に面白い。令和の時代に『東京卍リベンジャーズ』が流行していることからも、マイノリティな感覚でもなさそうだ。逆に、似たような境遇や環境で生まれ育った人にとって退屈なものなのかと言えば、きっとそうではない。僕なんかよりも、ずっと高い解像度でラッパーたちの言説をあるあるとして想像できるだろうからもっと面白く感じているのかも。そもそも本場USでHIPHOPが市民権を得ている(もはやメインストリームと言ってもよい)のは、そういう側面に依るところが大きい気がする。

もうひとつは圧倒的な自己表現あるいは自己肯定にある。ラップ・ミュージックの歌詞において視点が一人称、つまり歌っている本人であることは先ほど述べたが、そのどこまでいっても自分のことを語り自身を礼賛するという表現方法は、副次的に他者をも鼓舞する力が伴う気がするのだ。「俺はこんなに劣悪な環境で生まれ育ったが、いまではラップ一つでここまできたぜ。いい女とうまい酒、宝石だってこんなにある。俺ってすげえだろ。」というステレオタイプな文言の背後には、「俺でもできたんだから、お前もできるぞ。腐ってないでやってみろよ。」的なアツいメッセージがあることを感じ取ってしまうのだ。これはかなり旧時代的なHIPHOPのイメージだが、現在では(正確にはもっと前からだが)本当に多様な出自のラッパーが出てきており、およそすべての人が自身との共通項をもつラッパーに出会える土壌が日本にも出来てきている気がする。ラップ・ミュージックが「持たざる者の音楽」と表現される理由はここにある気がする。もちろんこの表現は、そもそもの音の作り方(サンプリング)やマイク1本で始められることにも大きく起因する。それらが物理的な側面だとすれば、今回触れたのは精神的な側面だと言える。

つまりラップ・ミュージックにおけるボースティングには圧倒的な自己礼賛という精神性が通底している。それは現時点のうまくいっている自分だけでなく、そこに至るまでの経緯ややり方、ひいては生まれた環境をも強く肯定する行為である。

 

自分が自分であることを誇る」 ー『ラストエンペラーK DUB SHINE

 

ということだ。この、聴いている者の自己肯定感にまで影響するほどの自己礼賛という態度が、僕がHIPHOPに感じる大きな魅力の1つである。

 

しかし、ここで問題になるのが「そいつがどれだけすごいかのエピソードなんて何とでも言えるじゃん」ということである。確かに彼らの楽曲中に登場する武勇伝なんかは真偽の確かめようがない。MVやinstagramのストーリーで見せびらかせているブリンブリン(桁違いの光物)や高級車だってレンタルかもしれない。実際ヘッズ(ファン)たちの間では、「あのラッパーはフェイクだ。」「こいつだけはリアルだ。」なんていうリアル/フェイク論争が散見される。

個人的な意見だが、この答えのない論争は最早ラッパー側の倫理観と我々リスナー側のリテラシーによって落ち着かせる他ないと思う。もちろん、HIPHOPという文化には「リアルであることが大前提」と言ったような風潮がある。それは文化の出自からも明らかであるし、嘘を並べたところで結果的に割りを食うのはラッパー自身であることを彼らもよく知っているのだろう。ということをリスナー側が認識することで、この信頼関係のようなものが成立しているような気がする。その上でようやく、そのラッパーの、一人の人間としての素性に興味が湧くのだ。そのラッパーの生い立ちや生き様を曲で知り、インタビューなんかで曲では語られない情報を得ることで、そのラッパーへの解像度がグッと高まりもっとそいつの曲が聴きたくなる。この「知れば知るほど面白い」がHIPHOPというカルチャーの沼に踏み入っていくきっかけとなるのだ。

 

 

途中で出てきた「サンプリング」や、ラップという歌唱法の基礎的な作法である「押韻」などラップには他にも面白い要素がたくさんある。が、今回はラップ・ミュージックに通底する精神性の面白さをなんとか語ったところで留めておきたい。ので、この日本語ラップというテーマはしばらく続きそうである。とりあえず次こそは服のことについて書きたいです○