どんな服を着るか

あなたは今どんな服を着ているだろうか。最近めっきり冷え込んできたのでお気に入りのコートに身を包んでいるかもしれないし、温かい部屋で動きやすいスウェットなんかを着ているかもしれない。昔から衣食住というくらいだし、人の生活において服を着ている時間は極めて長い。お風呂に入るとき以外は着ているんじゃないだろうか。そんな生活必需品とも言うべき服を、人はどう捉えているのだろう。ある人は服なんて究極ただの布なのだから着られればいいと考え、またある人は身に纏う服は一番身近な自己表現なのだから一番気に入ったものを着るべきだと考えている。またある人は、服とは広義の意味でファッションの一部なのだから流行のものを常に着ていたいと考える。いずれも真っ当な意見であり、貴賤はない。どこまでいっても服は服なのだ。人それぞれ好きなように楽しめばいい。しかし、ほぼすべての人が日常的に関わらざるを得ないものなのに(だからこそかもしれないが)、ここまで大きな考え方の違いが生まれているのは結構面白い気がする。実際、僕が今までであってきた人の中にはどのタイプの人もいた。そして、この服に対する考え方の違いは「どんな服を買うか」に顕著にあらわれると思う。大多数の人々にとって普段身に纏う服の入手方法は、お店で売られているものを購入することがほとんどだろう。古く(まだブランドという概念が生まれていないころ)はパターン(服の型)が売られていて、各ご家庭で生地を用意し服を作っていたそうだが今はそういう話は聞いたことがない。なのでひとまず、「自分が着るための服をどうやって選ぶか」つまり「どんな服を買うか」としておく。

 

恥ずかしい話だが、僕は大学生の頃から所得の大半を服や靴などの身に着けるものに投じてきた。そういう意味では社会人一年目となる今年はなかなか恥の多い年である。これまでで一番服にお金をかけたように思う。去年、「社会人になったら好きな服着る機会も減って買わなくなるかも〜」などと抜かしていた自分は本当に寝ぼけていたと思う。いきなりお金の話で悲しくなるが、僕たちは資本主義社会を生き抜いていかなくてはならないのだ。当然である。

「服はただの布」派の人たちには、服にお金をかけるという行為そのものが理解できないかもしれない。あるモノの値段を見た時に高いと感じた場合、それは自分(少なくとも今の自分)に向けてつくられたものではないという結構冷たい考え方もあるが、なぜ高い服が存在しているのかについて少し考えたい。

まず初めに、高い服が存在する以上安い服も存在する。(高いから良い、安いから悪いということではないことはきちんと断っておく。)それはいわゆるユニクロZARAH&Mなどに代表されるファストファッションの台頭により大衆に広く支持されるようになったと思う。Tシャツが1000円を切り、コートだって1万円だせばお釣りがくることも少なくない。冒頭に述べたように服は生活必需品であるし、ある種消耗品なのだから当然安い方がいい。しかも昨今のユニクロなんかはそれでいて結構質がいいのだ。生地も良ければ、縫製も昔よりよくなってきているし、日本人にとってかなり着心地のいいものが多い。「安くて質がいい。」完璧だ。服はユニクロ。終了。あざした。

 

とはいかない。安い服がなぜ安くて、高い服がなぜ高いのかの説明が必要だ。安さについては改めて説明する必要もなさそうだが、ひとえに大量生産に依るところが大きいだろう。かつて、産業革命に後押しされるようにフォード社による大量生産が確立され、安くて質の良いものがつくられるようになる。それにより自動車というものが大衆にまで行き届くようになり、人類の交通手段に大きな変革をもたらした。服も同様である。ファッション業界は、1970年ごろにオート・クチュール(haute couture:高級仕立服)からプレタポルテ(prêt-à-porter:高級既製服)への大きな変遷を経験し、時代を経てファストファッションによる大量生産に到達した。この大きな時代の動きは、いずれも大衆にファッションを届ける意味で非常に重要な役割を果たしてきた。つまりだれでも気軽にファッションを楽しめるようになったのだ。

そんな時代になってもなぜ依然としてデザイナーズブランドの服はあんなに高いのだろう。先程ファストファッションのTシャツは1000円を切るといったが、いわゆるブランド物のTシャツは数万円することもしばしばである。原価の違いはもちろんあるだろう。高級な生地を使ったり、高度な技術や丁寧な手仕事を要するものであれば当然コストは上がる。しかし、それだけでは説明のつかない金額というものは確かに存在する。

そこにあるのは、ブランドやデザイナーが連綿と続くファッション史の中で積み上げてきた、知識や哲学のような目には見えない価値が多分に含まれているからだと僕は思う。長いファッション史の中で絶えず新たな価値を持つデザインは模索され、それに成功した時代を象徴するデザイナーは数多く存在する。70年であればヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)、80年代は川久保玲(COMME des GARÇONS)や山本耀司(Y's)、90年代はマルタン・マルジェラ(Maison Martin Margiela)、00年代はエディ・スリマン(Dior Homme)、そして10年代はデムナ・ヴァザリア(VETEMENTS,BALENCIAGA)等が該当するだろう。彼らが稀代のデザインを生み出したのは何も偶然ではない。非常に高度な服飾の技術を専門的に学んだ上で、それまでのファッショ史が積み上げてきた価値を熟知した上で、それらを再構築し世に提案しているのだ。これはファッションに限った話ではない。わかりやすいもので言えば本だってそうだ。紙とインクでできてはいるが、値段がページ数で決まるわけではない。僕たちは、その本に書かれていることがこの世に顕現している事実に対価を払っているのだ。その価値は僕たちの知っている言葉で翻訳されているからわかりやすいだけで、服だって服における共通言語を知ればその翻訳の意味がわかってくるはずなのだ。「何かをデザインする」とはそういうものだと僕は思う。消費者がこのリテラシーを放棄した時、明日のファッションは死んでしまう。だから僕はデザイナーズブランドが出す服に高いお金を払うのだ。

 

僕が服にお金を使う(数をたくさん買うというより高い服を買う)ようになったのは大学2年生の秋ごろからだったように思う。それまでも自分が着る服については多少なりとも意識的だったような気がするが、値の張る服、いわゆるブランド物とは無縁だった。僕の出身が田舎なのも大いに関係あるだろう。だが、ひとたび高いお金を服に払い、その気に入った服を身に纏う悦びを体験すれば、際限のない購買という修行が手ぐすねを引いて待っている。購買の精度を上げるには度重なる失敗こそが必要で、思い返せば多くの服が僕のワードローブ(スカした言い方をしてしまったが平たく言えばクローゼットのことだ。)を通り過ぎていった。その中で段々分かってきたことというか、自分の服の買い方が定まってきたような気がする。

 

僕は現在、自分のワードローブの強度を上げていくことを念頭に少しずつ買い物をしている。どういうことかというと、僕は普段全身真っ黒の服ばかり着ているのだが、そのせいかよく着る服のジャンルが固まりつつある。色が変数として存在しない分、選択肢が服の型の種類に限られるというとわかりやすいかも。つまり、コート、ジャケット、シャツ、スラックスみたいに日々のスタメンが決まってきたのだ。そこで、それぞれのジャンルの自分にとっての「上がりの服」を揃えていこうという思考に至った。まあ、長く着られる良いものを少しずつ買っていこう、というただそれだけの話である。ただ、この「上がりの服」というのが結構難しくて、一般的にいいものかどうかではなく、それを着た時にいつでも自分がブチ上がれるかどうかという基準で選ぶのでなかなか集まらない。この「ブチ上がる」というのもまた難儀なもので、着心地が抜群に良いことや単純に見た目がかっこいい、自分に似合っているといった要素のほかに、「好きなブランドの服である」、「好きなデザイナーが手がけた服である」というものが入ってくる。この先に待つのは、「自分が気に入って着ているこの服を、自分は本当にモノとして気に入っているのか。好きなブランドだから、憧れのデザイナーがつくったから好きなんじゃ。…俺はいま情報を着ている。」という終わっている思考である。こうなるともうおしまいなので、身近に罹患者がいる方は生温かい視線でもって接してあげてほしい。服好きとはかくも憐れな存在なのだ。

 

とは言いつつも、そんな日々を過ごしてようやくまともな(?)買い物ができるようになってきたように思う。本当に最近、ここ1年くらいのことである。そこで次回からは、時期も時期だし1年の振り返りの意味も込めて今年購入したものを軸に僕の好きな服やブランドについて、いろんな文脈に触れながらなんとか語っていければとおもう。このテーマも長くなりそうだが、優しく見守っていただきたい○