韻の飛距離について

前回、ラップ・ミュージックに通底する精神的な面白さについて語ったが、今回は基本的な作法である「押韻」についてなんとか語ってみたいと思う。

 

まず、その基本的な仕組みはもはや説明不要であろう。かの時代とは違い「韻」というものはもはや日常にあふれており、ポップスやロックの歌詞に登場することも珍しくない。というか起源は漢詩にあり、詩の基礎的な修辞技法であるため作詞において押韻がみられるようになったのは今に始まったことではない。より身近な例を挙げるとすれば「インテル入ってる(Intel Inside.)」だろうか。これだけで「押韻」における「頭韻」と「脚韻」が説明できるのだから大変スマートである。(ちなみにこのコピー、日本で生まれたものらしい。すごい。)

仕組みについては以上だが、ラップ・ミュージックの「韻を踏む」という行為の面白さについて考えたい。その基本的な役割は、譜割りのリズムをよくしたり聴き心地をよくしたりといった感性に寄ったところが大きいような気がする。しかし、韻の面白さはもう少し違うところにもあるのだ。それはR-指定が言うところの「韻の飛距離」というものである。(そろそろ気づかれてそうだが、僕はCreepy Nutsを偏愛しているためこの手の話題ではかなりの頻度で彼らが登場すると思う。)ではこの「韻の飛距離がある」とは一体どういう状態なのか。それは、「韻を踏んでいる状態にある複数の語句の間の意味内容が乖離しているほど可笑しみが増すこと」を指していると思われる。意味が分からないと思うので実例を見てみよう。(できれば最初は歌詞を見ずに聴いてもらいたい。)

 

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これはZORNの『Have a good time feat.AKLO』という楽曲である。今回取り上げたいのはZORNの1バース目。ZORNと言えば現在の日本語ラップシーンにおける押韻の極北といった存在であるが、この楽曲でもとんでもない踏み方、そして「飛距離」を叩き出している。

ヤン車でナイトクルージング

煙くて窓開けないと苦しい

昔は逮捕続き

でも今ラップするチャイコフスキー

インスタ映えしないディープな夜景

誰がBEAMSなんて行くかハゲ

お前はスタバでPOPEYEを読む

俺らキャバクラでおっぱいを揉む

絶品フレンチよりよっちゃのもんじゃ

聖地巡礼に来い 昭和のモダン

ミシュランガイドの三ツ星店でも

見つかんないとこ見過ごしてる

一軒もねえ 成城石井

土手で童貞捨てたhomie 正常位し

表参道のオープンカフェよりも

嫁さんとの醤油ラーメン

両者ともそれぞれの日常をテーマとしており、特別な日ではなくなんでもない毎日こそが生きていく上で重要なのだ、みたいなメッセージを感じる。ZORN葛飾新小岩に生まれ現在もそこを拠点に活動を続けているラッパーで、長く固い韻を踏むスタイルを確立している。今回取り上げたバースでもそのスタイルは一貫しており2小節単位でバチバチに踏んでくる。中でも「ミシュランガイド~見過ごしてる」までの流れはなかなかすごい。ABABという構成でありながら(ここが全踏みの時点できもい)、4つすべてで頭韻、しかも"iu"の2音で踏んでいるのだ。そして技術に裏打ちされるかのように、当然の如く聴いていて気持ちがいい。ビートへの乗せ方も相俟ってついつい首を振ってしまう(MVのZORNのように。)

しかし、それだけではない。今回のテーマである「飛距離」についてだ。これについては前述の通り「可笑しさ」や「面白さ」に係るものだと思っているので、「飛距離がある」かどうかは非常に主観的で定性的な判断になる。個人的にZORN押韻は大抵の場合たいへんな飛距離があると思っているのだが、今回であれば後半4行に集中して見られる。

まず「成城石井」と「正常位し」。全踏み、それも母音ではなく子音でなのでもはやここまでくると駄洒落とどう違うのかと思われるかもしれない。ここでは成城石井が一軒もないという新小岩辺りの下町らしさを描写しつつ、そこから急に土手(中川だろうか。)での青姦の描写に移る。意味内容において一見何の脈絡もないこの2つの単語が「押韻」の下に召集され、ややもすればなんだか新小岩の日常として地続きなものかのように扱われる。(だとすれば大変愉快な町である。)この関連のない複数の語句に対していかに関係性を見出し意味の通ったまとまりとして成立させるか、というところが押韻と駄洒落との決定的な違いかと思う。そして、その複数の語句の意味内容における関連の無さが「飛距離」として表れる。

また、最後の2行においてはこれまで描かれてきた新小岩の対比として、小綺麗な街の象徴である「表参道のオープンカフェ」が持ち出され、呼応するように「(も)嫁さんとの醤油ラーメン」と驚異の14文字全踏みが待ち受けている。このように思いがけないフレーズでこんな文字数踏まれると単純に面白くてゴンフィンガー(gun finger:レゲエのイベント等で盛り上がったときに見られる行為。指で銃を模倣した形をつくり空高く掲げるのだが、これは昔実際にブチ上ったら銃をぶっ放していたことに由来する。)という感じなのだが、ここでふと気づくことがある。

 

この対比というのは、振り返ってみるとこのバース全体を貫く構成となっているようだ。現代の「充実の象徴」としてSNSに蔓延る華やかで小洒落た街並みや暮らしぶりと、そういうところには映らない地元下町の小汚いそれらとを明らかに意図的に対比させるように配置している。なぜか。これは通常主観的に測ってしまう「飛距離」をなんとか客観的な指標でもって評価しようとする行為だと僕は思うのだ。どういうことかというと、「飛距離」、つまり複数の語句において意味内容がどれだけ乖離しているかは、個人の経験や価値観に依るところが大きいと思う。もっといえば、言葉の意味というのはある程度周知されており、ほとんどの場合伝えたいことは伝わるのだが、その言葉によって掻き立てられる想像や連想されるイメージが人によって全く異なるのだ。当然、「飛距離」も人により異なるということになる。

ところが対比という構成でもって語句の配置を行うとどうだろうか。その瞬間たちどころに語句の意味するところが狭まり、というか相互的にイメージを補完しあう関係性が成立する。一般的な語句のイメージとそれによる距離感がある程度規定されるのだ。それにより、万人にとって飛距離のある押韻が成立する。

 

僕は「面白い」という感情は、共通認識に作用できているかに大きく関わっていると考えている。その極致ともいえるのがいわゆる「内輪ネタ」であり、「内輪ネタ」が公の場で忌み嫌われるのもその場にとっての共通認識にはないものを扱うからだろう。これは、電車内なんかで他人の会話は気にならないのに、電話での会話が妙に気に障ることにもひょっとすると通ずるのかもしれない。そういう意味で、対比という構成をとることによって複数の語句の共通認識を(強制的に)認識させることは、韻の「飛距離」(韻によって引き起こされる可笑しみ)を獲得するという点において非常に有効な手段だと思うのだ。ZORNが意図的にそうしているかは別として。

 

こうした視座でもってラップ・ミュージックの歌詞をみてみると、非常に慎重な手付きで言葉が配置されていることがわかってくる。それは聴き心地という感情的な面と今回のような理性的な面の双方において。もちろんこれは僕が勝手にそうなんじゃないかなと考えていることなのだが、ラップ・ミュージックの見方(聴き方)のひとつとしてこういうのもあるかなと思う次第である。ほんとはサンプリングについても一緒に考えようかと思っていたんだけど、妙に文字が多くなってしまったので次回にしようと思います〇