映画『ドライブ・マイ・カー』

1ヶ月ほど前に観た『ドライブ・マイ・カー』という映画について、ようやく自分の中で整理がついた気がして文章にすることができた。以下、本編の内容に触れるため鑑賞予定の方はご注意ください。

 

 

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3時間という比較的長尺の映画だったが、退屈ではなかった。物語は淡々と進むのに。何らかの意図を感じ取れてしまうほどに演者たちのセリフには抑揚がないのに。それは僕が主人公である家福という男に、なめらかに感情移入できていたからかもしれない。

 

この映画には原作が存在する。村上春樹の短編集『女のいない男たち』に収録されている『ドライブ・マイ・カー』『シェエラザード』『木野』の3本がそれに当たり、それらを下敷きとして1本の映画となっている。なので厳密に言えばいわゆる原作ではないのだが、濱口竜介がこれらを参照し編集し脚本を書いたのだからある種の原作といえる。

この映画の大筋としては、最愛の妻を亡くした男が、その後の人生で閉ざしていた自己や亡き妻との向き合い方の変化を描いているように思う。僕個人としては、この「閉ざしていた」という部分がこの映画で描かれた心の機微として最も重要なものだと思っている。これは原作のひとつである「木野」を読み終えて、強く感じたことでもある。

映画『ドライブ・マイ・カー』において、主人公・家福の自己との対峙は北海道でのシーンに強く描かれている。ドライバーであるみさきが、彼女の暗く陰鬱な過去に自身の中でのけじめをつける場面であり、それに誘発されるようにして家福の自身の過去との向き合い方に変化が生まれる。その時家福から発せられる台詞が、記憶が正しければ、『木野』に出てくる台詞と一致している。

 

そう、おれは傷ついている、それもとても深く。

 

ここで『木野』における主人公である木野が傷ついている理由と、家福が傷ついている理由は完全に一致はしていないが重なる部分がある。どちらの場合も、自身がそのことについて目を瞑る、或いは自身の中で折り合いをつけることで意識的にその問題との距離をとっていた。それは自身が傷ついていることを認識する前に、無意識に、本能的になにか論理をみつけて自身を納得させることで、自分が傷つかないようにする、言わば自己防衛的な行為だと思う。

そのとき家福は、自身が無意識に行っていた自己防衛の向こう側には、深く傷ついている自分がいたことを知り、涙を流して真に自己と対峙することを決意する。このシーンは、僕にはこう映ったのだ。正確には映画でこのシーンを観た時ではなく、『木野』を読み反芻的にそう認識した。

 

この映画が素晴らしく思える理由は、短編3作に2題の演劇を織り交ぜながら滑らかな1つのストーリにまとめ上げた濱口の手腕であるとか、「演じること(演劇)を演じている(映画)」という入れ子の構造において、仮面を外したときの演者の人間的な部分を抉るように描写することに成功している点、劇中の演劇に手話というメディアを持ち込んだことなど、挙げればキリがない。とくに2つ目なんかは、フィクションだからできることであり、それを際立たせるために演者(映画)のセリフに抑揚がないのか、とか、そのためにあの「本読み」があったのか、など色々と考えを巡らせてしまう。

しかし、僕が心を打たれたのはそういった映画技法的なところではなく、(それらに支えられるようにして)人が真に自分と向き合うとはどういうことかをまざまざと見せつけたところだと思っている。しかも、原作、特に『木野』と併せて読むことでその行為がひどく恐ろしい性質を孕んでいることを、読者・鑑賞者に突きつけてくるのだ。

 

それまで僕は「自分と向き合う」という行為を漫然と素敵なものだと思っていたし、僕は割とそういう行為が出来ていると思っていた。自己肯定感も強い方だと思っているし。しかし、映画『ドライブ・マイ・カー』そして原作『木野』での、どろどろとした暗く重い「自身との対峙」の有りようを観て、その辺がかなり揺らいでしまった。僕の自己肯定感の深いところには本能的な自己防衛みたいなものがあるんじゃないか。つまり、少しでも自分というものが傷つきそうなときには、意識するよりも速くブレーキが踏まれていて、自分の中でなにか理屈がこねられて、そういうおそれのあるものに蓋をしていたんじゃないか。そのたくさんの蓋の上に自己肯定感がどかっと横たわっている。そういう風に思えてしまうのだ。

 

いつだったか、CreepyNuts のR-指定が「歌詞を書いている時はほとんど自傷行為に近い。」という旨の発言をしていた。以前HIPHOPの性質について書いた記事でも触れたが、基本的にラップ・ミュージックではラッパー自身のことが歌われる。それは、その人のこれまでの人生を明らかにする行為であり、突き詰めれば開けたくもない「蓋」を開ける行為なのだ。まさに自傷行為である。しかし、R-指定は続けて「その詞が完成したとき、憑き物がとれたように楽になる。ラップをすることは自傷行為を通したある種のセラピーでもある。」と言った。

 

今になってこの言葉の意味が少しわかるような気がするのだ。あらゆる表現行為の出力先である「作品」には、どうしようもなく個人的な事情で生み出され、いくつもの葛藤の果てに産み落とされるものがあると思う。その葛藤の様子を作品に垣間見たとき、そしてそれが自身に射影されたとき、人は「琴線に触れた」と感じるのかも知れない。

そういう意味で、この映画は僕にとって重要なものになっている。それは、家福という男の自己との対峙のしかたを通して、僕自身の自己防衛という本能的な行為が存在する可能性を仄めかせたからだ。この行為が僕の中で本当に行われていた/行われているのかは、今はまだよくわからない。だが、そこに至るまでの思考の契機をもたらしたことは確かであり、それはつまり僕にとって『ドライブ・マイ・カー』がすごくいい映画だったと言える○