なにかについて語ろうとすること

 

「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」

 

これはルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる『論理哲学論考』の最後の命題としてあまりに有名なフレーズである。

僕がこの言葉に出会ったのは修士1年の頃だったように思う。10+1websiteという建築を中心に論考や対談などがアーカイブされているサイトがある(残念ながら2020年3月をもって更新が終了している)のだが、その中に立石遼太郎さんという方が執筆された「建築の修辞学」という記事があった。その記事がまあとにかくおもしろい。(以下にリンクを貼っておくので是非)こんなに鮮やかな建築の語り口があるのかと。当時の僕が受けた影響は大変なもので、そのまま修士設計のテーマを決めてしまったほどである。その記事の中で触れられていたのが冒頭のフレーズという訳だ。

www.10plus1.jp

 

論理哲学論考』において、僕たちがいる「世界」とはあらゆる事実の総体からなるもので、その世界に包含されるかたちで「僕がみている世界」が存在している、という位置づけがなされている。そして、その「僕がみている世界」とは「僕が語り得るもの」でできているというわけだ。しかし、「僕がみている世界」の中の全てを語り得るか、と言われるとどうも自信がない。例えば日頃から趣味として接しているものも実際よくわからずに好んでいるし、どこがどう好きなのか、どう良いのかを人に説明しようとすると途端に言葉に詰まってしまう。専門的に学んできた建築だって満足に語れないのだから当然と言えば当然である。とにかく、そういう類のものを僕の世界の中での「語り得ぬもの」として位置付けたい。そうすると「語り得ぬものについてなんとか語る」行為は僕の世界を少しだけ押し広げるという行為になるかもしれない。なんだか意味がありそうだ。

 

人があるものごとについて語る、それは大抵の場合その人自身が普段からよく接していて、なおかつその物事についてある程度理解しているという自負があるときに起こる行為だろう。その語り口はきっと流暢で、頭の中の情報に対して発話のスピードが追いついていないような感じかもしれない。それは「語り得るものについて語る」という状態と言えそうだ。その「語り得るものについて語る」のに適したメディアはやはり「発話」であろう。対して「語り得ぬもの」、つまり自分の言葉で流暢に説明できないものは「発話」という速いメディアには不向きだ。「語り得ぬもの」というくらいだからそのことについてあんまりよく知らないし、知っている情報が正しいのかもわからない。(正しさがどこまで重要かは置いておくとして。)それをなんとか語るためには、調べたいこともたくさんあるだろうし自分の考えを何度も推敲しなきゃいけないだろう。それに適した遅いメディアとして文章がいいと思ったのだ。

 

そもそもなぜ僕が誰かに頼まれたわけでもないのに何かについて語り、それを文章として発信するのか。もうすでにだらだらと喋っているが。僕はいつからか文章を書くという行為に憧れていた。学生の頃、建築家なんかが書いた文章などをよく読んでいたのだが、たまにすごく素敵なテキストに出会う。フレーズでも文章でも、とにかくテキスト。それは建築家自身の作品についての解説だったり、その人自身の哲学だったり様々だがそういうテキストというのは結構自分の中で大事なものとして残っていて、制作の最中折に触れて読み返してはときめいたりしている。

それともう一つ。僕が大学院生の時に所属していた研究室に、それは偉大な博士課程の先輩が2人いた。どちらも大変優秀な方で普段の何気ない会話すら勝手に緊張していた。そのうちのお一人が数年前からブログをやられていて(界隈では結構有名なブログなのでご存知の方も多いかもしれない)、そのブログがまあ面白い。日常の何気ないことから建築や芸術などについての丁寧な思考まで幅広く書かれている。ひっそりとファンであった僕はアーカイブを1から遡り全ての記事を読んでは一人尊敬の念を募らせたりしていた。そうこうしている内に、ブログって面白そうだなと思ったのだ。

 

たくさん文字を積み上げて御託を並べたがつまりは100%憧れからブログの開設に至ったという訳だ。しかしうきうきで開設したはいいものの、一体どんな記事を書けばいいのか結構悩んだ。悩んだが、僕が熱をもって話したいと思うことなんかそんなにたくさんあるわけでもなく、趣味やそのとき興味があることについてなんだろうなという感じである。

なので、ひとまず興味のある建築・服・映画・音楽なんかについていろいろと書いていけたらと思う次第である。最近自分の中でアツいのは服のことについてなので、次の記事は服についてなんとか語っているかもしれない。

どんなカルチャーにも言えることだが、少し足を踏み入れると上には上がいるというか生き字引のような人がゴロゴロいて(特に昨今のsns時代においてはそういう人が目立つ)自分なんかが今さら何を語るんだ、という卑しい気持ちに襲われるが、こういう行為はある種訓練のようなものだと思うのでめげずに続けていきたい。

ブログで好きなこと書くよ〜というだけの内容なのに、小難しい哲学書から始めているあたりかなり心配だが取り急ぎ所信表明として○